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第5回新渡戸記念国際シンポジウムでのコメント

第5回新渡戸記念国際シンポジウムが2007年8月2〜3日、上智大学で行われました(プログラム等はこちらから)。題して「ヨーロッパ言語とアジア圏 − 言語政策の過去・現在・未来」。(第一回からの情報はこちらから

これまで、第一回はチェコ・プラハ、第二回はドイツ・ベルリン、第三回は中国・北京、第四回はリトアニア・ビリニュスで開催され、今大会は日本開催となりました。私は二日目にありましたパネル・ディスカッション「アジアにおける英語−土着化と抵抗」にコメンテーターとして参加いたしました。発表者は、マレク・コシチェレツキ

氏、ロバート・フィリップソン氏、河原俊昭氏、馮志偉氏、ジョセフ・エリントン氏、E・アナマライ氏です。堂々たる顔ぶれで、それぞれの発表がとても濃い、刺激的なものでした。

コメンテーターとしてまとめるのは大変でしたが、自分なりの視点を出せていればと思います。


第5回新渡戸記念シンポジウム2日目(2007年8月3日)

「アジアにおける英語―土着化と抵抗」:コメント最終原稿

福岡教育大学 吉武正樹

6名の先生方、ご発表ありがとうございました。では、本パネル「アジアにおける英語―土着化と抵抗―」というタイトルに沿って、本日の発表を簡単に振り返ってみたいと思います。

● さまざまな「土着化」

まず、土着化についてですが、アジアにとって英語はもともと外部からもたらされた言語です。しかし、そこから先、英語は異なった形でそれぞれの地域に根づいていきました。今回の発表を見ても、日中における土着化とインドにおけるそれとはかなり異なるということが、それぞれ通時的(

diachronic)に描かれていました。

▼日本:

まず、コシチェレツキ先生は、日本の近代化という文脈で外国語、特に英語の受容(Reception)の歴史を描かれています。日本では、明治時代前から外からの圧力に対応する形で英語を受容し始め、時に英語に熱狂したり、時に敵性語となったり、この200年あまり振り子のように大きく揺れつづけてきました。そして、河原先生がおっしゃるように、現在では、日本語で十分機能するこの国で、文部科学省曰く英語による「実践的コミュニケーション能力の育成」に固執する方向にあります。

▼中国:

一方、フェン先生は中国における英語受容の歴史を紹介されました。中国でもちょうど200年前、イギリス人宣教師によって英語がもたらされたわけですが、中国の場合はロシアとの関係によって英語の役割が揺さぶられていました。そして現在は北京オリンピックを前に、かなりの英語熱の盛り上がりのようです。

面白いのは、日本では、特に最近、英語教育が国語教育とセットでよく語られるのですが、フェン先生も論文の最後に、「英語教育と中国語教育のバランスが求められている」と指摘されている点です。日中の場合は、英米による直接の植民地支配という「外」から「内」への押しつけでなく、「内」から「外」への眼差しとして英語が機能し、同時に外へのベクトルによって打ち消されそうな「自分」を母語、もしくは母国語教育の重要性で補おうとする姿勢が見え隠れします。それは時にナショナリスティックな含蓄を持つ場合もあります。

▼インド:

アンナマライ先生のご報告にありましたように、インドでは、直接イギリスの植民地政策の元、近代化の過程で英語が社会システム全般に深く浸透し、英語による社会的地位の上昇、インド土着語の私的領域化、ヒンディ語話者のエリートが抵抗として英語を利用することなどと絡みながら、言語エコロジー(linguistic ecology)における変化をもたらしています。

● 「土着化」をどう捉えるか

ここで、英語の多様な土着化の状況をどう解釈するかが問題となります。フィリップソン先生はそのためのフレームワークをEUに言及して提示されています。

多言語主義を推進しているEUですが(ORヨーロッパ言語参照枠(Common European Framework of References for Language)でも知られるEUですが)、そこには理論と現実の乖離が見て取れました。その上で重要なのは、フィリップソン先生がおっしゃる「新・言語帝国主義(linguistic neo-imperialism)」という解釈の枠組みです。ここでは台頭しつつあるネオリベラリズムや新たな形の帝国が念頭に置かれています。

また、河原先生による「国際英語」も一つの枠組みと考えられるでしょう。このご提案は、昨日フェテス先生が挙げられた言語の4つの価値観のうち、「効率性」に関係します。「国際英語」とは、その意味で土着化した英語を敢えて自らのアイデンティティの表現として積極的に活用し、「効率的」なコミュニケーションを図ることを重視するものです。

これら二つの枠組みを並列してみますと、一見したところ、「新言語帝国主義VS国際英語主義」という形で対立しているかのように見えます。ただし、河原先生がおっしゃる国際英語はEUを参考にして、「母語プラス2言語」を理想として想定していらっしゃいます。その意味では、多言語主義的な視点を両者保持しつつ、「国際英語」という効率的な側面をどの程度まで評価するかということが問題になるでしょう。

● コメント

ここで1つコメントを挟みたいと思います。

今回のご発表のように、社会現象を観察する際、私たちはマクロな視点から現象を俯瞰し、そのようすを記述していきます。それと同時に私は、「ミクロ」の視点、つまり今日のレーガン先生のお話でいうlanguage attitude、私なりに言うと「人々の内面を掘り起こしていくこと」が必要ではないかと思っています。その点で参考にしたいのが、エリントン先生によるインドネシアの言語事情についてのご発表です。

報告では英語については直接触れられていませんので、この後の議論で少しご紹介いただければと思いますが、エリントン先生は最後の方で「コミュニカティブ・ダイナミックス(communicative dynamics)」という言葉を使っています。私なりに言い換えますと、つまり、人間のアイデンティティも含め、言語、文化、社会、国家、教育などあらゆる構造は人間による日々のコミュニケーションによって媒介され、常に再生産されているということです。専門的には、こういった構造の動態性は、すでに1970年代にギデンズの構造化理論(structuration theory)や、ブルデューのハビトゥス(habitus)概念によってその原理が明らかにされています。

例えば、ある地域である政策を施行する場合、必ずしも自動的に遂行はされません。エリントン先生の報告によると、複雑な敬語システムを避けるため、オランダ人はコミュニケーションの手段としてLow Malayを採用しました。しかし、そこから人々の生活のニーズに根づいたさまざまなLow Malayが派生してきました。このように、そこには必ず、人々がその政策にどのような「意味」を見出し、どのような「態度」を取ったかという、そこにいる人間の態度や反応を媒介しています。そうした「態度」にもとづき、時に人々はそれに抵抗し、受け入れるにしても、政策側の意図からするりと抜け出て、またあらたな展開が始まるものなのです。

ですので、アジアそれぞれの場所で、人々が英語をどのように捉え、どのような態度で接し、どのように使っているのかが明らかになると、「アジアにおける英語」のあり方のダイナミズムがより鮮明に浮き彫りになると思います。これに関しては、時間があれば最後に日本の例を簡単に紹介しようかと思います。

● 「抵抗」について

さきほど「国際英語」という英語の積極的な側面に触れましたが、言いかえれば、英語には問題になる場合と、そうでない場合があるということです。

問題にならない場合は、英語を使っていてもさほど政治性が顕在化しない場合、または、互いを理解しようとする姿勢によって政治性や不平等がある程度乗り越えられる場合です。そういった場合に、英語は「交流」のための言語としての役割を発揮します。典型的な例としては、昨日エスペラントでゲリさんを紹介していただいた際、英語という媒介によって私はゲリさんと意志疎通ができましたし、それは昨日の昼食会や懇親会などでも同様です。

しかし、そんな場合でも、「効率性」のメリットは同時にデメリットとなりえます。まず、単一言語主義による多文化主義はどの程度可能なのか。また、日本のように全員英語を学習させる場合、仮に言語市場が別の言語に移ったとすると、国民総倒れという危機にさらされます。さらに、英語が「対外的」な言語として捉えられると、逆に、国家語は「内向き」の言語として表象されてしまい、例えば外国人労働者の言語をはじめ、アイヌ語や琉球語など、身の回りにあったはずの少数言語があたかも不在であるかのように扱われています。つまり、効率性を追い求めると、その構造上、非効率的な要素をスムーズなコミュニケーションの障害と見なすことになるのです。つまり、究極的に行きつくところは、グローバリゼーションです。

英語はアジア限定のメディアではありませんので、英語を口にした瞬間、それはアジア以外の人々にも理解されてしまう宿命を持ちます。つまり、アジアにおける英語はグローバル市場への接続を意味します。その功罪は昨日から色々と出されているので細かく申し上げる必要はないと思いますので、ここでの最大の問題は、グローバリゼーションにどう「抵抗」するかです。昨日も話に出ましたが、例えば津田幸男先生やスクトナブ=カンガス先生らが提唱されている「ことばのエコロジー・パラダイム(Ecology of Language Paradigm)」はその対抗軸といえます。難しいのは、そうしたパラダイム・シフトの方法論です。

というのも、第一に、「ミクロの視点」からみると、グローバリゼーションを支えているのは「人々の欲望」であるということです。資本主義にもとづく不特定多数の人との自由な交換システムでは、消費者が何かを欲望した瞬間それは商品の対象となり、それがモノであれ、サービスであれ、時には人間であれ、自由に交換されることになります。この暴走を制限することは、実存の内側から沸き出る「欲望」を制限することです。生まれたときからモノに溢れた環境で消費主体として育った人々が多い今日、特に日本などはそれが顕著ですが、欲望に反する倫理は「外部」からの押しつけと見なされ、当人たちがそうしたパラダイムにリアリティを持つために何ができるのか。

第二の困難として、現在、教育そのものがグローバリゼーションに飲みこまれ、教育についての語り自体が経済の言葉で飾られているということがあります。実際、日本の小学校英語の最大のサポーターは「産業界」と「親」と言われています。産業界はグローバル・エコノミーに対応し、メガ・コンペティションの勝ち組になり、日本の不況を打破したい。それは国益を確保したい政府とも合い通じるものがあります。また、小学生の親の7〜8割は小学校英語の必修科に賛成しているというアンケート結果もあります。

ちなみに、同調査で、89%の親が自分の英語力に自信がなく、80%の親が自分が受けてきた英語教育が役に立たなかったと答えています。どうも、自分の英語コンプレックスの解消を子供に託し、そのためには役に立たなかった英語教育を、実際に「役に立つ」コミュニカティブな英語教育へ改善しろという思いが、政策にお墨付きを与え、教育を英語のトレーニングのためのサービス業にさせています。

ついでにもう一つ脱線しますが、昨日臼井さんが挙げられた「クレイジー・イングリッシュ」というドキュメンタリー映画ですが、その中で「金を稼ぐぞ!」といった文を先生と受講者が互いに英語で何度も叫び合うシーンがありました。これは、中国における英語と経済との結びつき、そして、大声で叫ぶことで打ち砕こうとしているのが、中国人の英語コンプレックスであるという、日本同様の2つの兆候を示していると思います。

まとめます。今一度「アジアにおける英語―土着化と抵抗―」というタイトルに帰りましょう。アジアではそれぞれの仕方で英語が土着化してきました。それを土台に英語によるネットワークを築くことは可能です。しかし、それは効率性を求めるが故に、「同時に」英語以外の外国語が効率なコミュニケーションの障壁となったり、アジアの外にも開かれることでグローバリゼーションの問題に直結することを意味します。要は、これにどう対抗するかですが、グローバリゼーションが人々の欲望に支えられているということ、また、やはり人を変えるのは教育だということになりますが、その教育までもがグローバリゼーションの論理に飲みこまれつつあるということ、こうした事態がアジアに限らず、ある意味普遍的に我々のチャンレンジとして立ちはだかっています。もしかしたら、今求められているのは、今一度人間による変革の可能性を信じ、それに賭けてみることなのかもしれません。

(月刊『エスペラント』2008年2月号に短くまとめたものが掲載されました)